賓日館

三重県伊勢市二見町茶屋566-2

TEL:0596-43-2003
About

賓日館について

賓日館は明治20年、伊勢神宮に参拝する賓客の休憩・宿泊施設として、神宮の崇敬団体・神苑会によって建設される。明治天皇の母にあたる英照皇太后のご宿泊に間に合うようにと、明治19年12月に着工、翌年2月19日に竣工。
これほどの短期間で格調高い建物が完成したのは驚異といえる。
その後、明治末期から大正初期にかけてと昭和初期の2回の大増改築を重ね、現在の状態となった。

明治24年7月29日から3週間余り、ご幼少時の大正天皇(明宮嘉仁親王)が避暑や療養、水泳訓練などを兼ねて滞在されたのをはじめ、歴代諸皇族、各界要人が数多く宿泊された。
そして明治44年2月には隣接する二見館(三重県初の政府登録国際観光ホテル)に払い下げられ、二見館の別館として平成11年まで宿泊所とされてきた。
二見館の廃業後、平成15年に二見町に寄贈。 賓日館では、建物だけでなく庭園も含めて、当時一流の建築家による品格のある洗練されたデザイン、選び抜かれた材料やそれに応える職人たちの技など、日本の伝統建築の粋を目の当たりにすることができる。

建築学的見地からだけでなく、明治から大正、昭和、平成、令和へと二見町の近代史を語り伝える国指定重要文化財である。

二見かえる
賓日館大広間
賓日館 木札
賓日館 資料館

皇室ゆかりの場所

歴代諸皇族や各界要人がご宿泊

賓日館は明治20年、伊勢神宮の賓客の休憩・宿泊施設として神宮の崇敬団体・財団法人神苑会によって藤堂藩の砲台跡地(敷地面積1,000坪余り)に建設された。神苑会総裁の有栖川宮熾仁親王が賓日館の命名者で、「賓客の泊まる日の昇る館」という意味がある。賓日館は明治20年3月7日、英照皇太后のご宿泊予定に間に合わせる為、経費5,000円余り(当時)、建坪180坪余りにて建設される。実質的な管理は隣接する二見館を経営する若松徳平が当たることとなった。
その後、明治24年7月29日から8月20日までの3週間余り、皇太子明宮善仁親王(後の大正天皇)が賓日館に滞在されることとなる。その後も、歴代諸皇族や各界要人がご宿泊され、賓日館2階廊下には過去にご宿泊・ご休憩された歴代諸皇族の札が掲げられている。

賓日館明治外観
賓日館大広間昔
賓日館明治庭園
賓日館明治庭1
History

賓日館のあゆみ

賓日館の歴史 二見の歴史

1882明治15年

10月19日、二見立石浜が日本最初の海水浴場として国指定される。

1884明治17年

旧二見館前に海水浴場が移設され、二見館に海水温浴設備が設けられる。
海水浴場

1886明治19年

12月に賓日館の工事着工。

神宮の崇敬団体・財団法人神苑会が発足。

1887明治20年

2月19日、賓日館完成
創建当初の写真

3月7日、英照皇太后がご宿泊。

1891明治24年

7月29日~8月20日、後の大正天皇・明宮嘉仁親王が避暑、療養、臨海学校の目的でご滞在。

1903明治36年

山田、二見間の電車・神都線が開通。

1905明治38年

新道完成。旧茶屋街から現在の旅館街へ移動がはじまる。

1909明治42年

宇治山田倉田山の神宮徴古館に賓日館の陳列物が移設。

1911明治44年

2月、賓日館が二見館別館となる。

7月21日、国鉄参宮線開通。

明治末期~大正初年

初めての賓日館大増改築。
創建当時の規模で玄関棟と西棟を2階建てにする。

1930~
1936昭和5年~昭和11年

2回目の賓日館大増改築。
神宮式年遷宮で主任技師を務めた建築家・大江新太郎と塩野庄四郎による設計監理。
現在の賓日館に近い間取りとなる。
大広間昔

1984昭和59年

3月26日、礼宮文仁親王殿下(現秋篠宮殿下)がご来館、庭園北側にて記念植樹。

1997平成9年

国の登録有形文化財に認定される。

1999平成11年

11月30日、二見館廃業に伴い賓日館も宿泊施設としての役割を終える。

2003平成15年

賓日館が二見町に寄贈される。

2004平成16年

3月17日、県の有形文化財に指定される。

2010平成22年

6月29日、国の重要文化財に指定される。

About Sasyu Nakamura

中村 左洲について

明治6年(1873)~昭和28年(1953)
度会郡二見町(伊勢市)今一色生まれ。本名:左十。
郷土の三村亘翁の援助で四条派の画家磯部百鱗に学び、
明治29年、日本美術協会に「左甚五郎之図」を出品し三等受賞。
明治32年、全国絵画共進会に「志海泊舟の図」出品し一等賞受賞、宮内省買い上げとなる。
明治34年、二見館主-若松徳平の四女・小さいと結婚。
この頃より皇族の伊勢・二見行啓に際し、恩命により御前で絵筆を執り、画を奉納するようになる。
大正6年、文展に「群れる鯛」を出品し入選。
など、全国に通用する画技を持つ日本画家。

明治28年、第4回内国勧業博覧会に出品した「製塩図」が褒状を受け、以後東京で開催される展覧会にも出品するようになる。
その後、大正6年第11回文展にて入選した「群れる鯛」が御木本幸吉翁の眼にとまり、買い上げられたという逸話が伝えられている。
昭和28年、81歳で没するまで麗筆を揮い、幾多の名作を残している。
地元伊勢では写実的な鯛の絵の名手であることから「鯛の左洲さん」として知られていたが、左洲がかつて漁師であったこと、魚類は円山四条派の重要な写生対象であったこと、鯛の絵は吉祥画として多くの需要があったことなどが主な理由だと言われている。一方で、山岳風景を主題とした情趣こまやかな風景作品には画家中村左洲の技量がより強く現れている。
今一色の高城神社には、左洲の遺徳を顕彰するために門下生らによって建立された「左洲翁筆塚」がある。
生涯二見の地を離れなかったため、地元住民に愛され、現在も「左洲さん」として人気が高い。

中村 左洲2
中村 左洲 賓日館002
左洲 鯛
賓日館 中村 左洲001